第1次争議①
1945年9月13日、読売新聞社の中堅幹部45名が正力松太郎社長へ社内民主化に関する意見書を提出した。
“ 「君の社にはどうしてあんなにたくさんの赤い社員がいたのか」と正力の巣鴨出所後、友人伊藤忠兵衛が質問したところ、正力は「俺は勤勉に、真面目に社のため働く人間はどんな思想をもっていようと構わない方針だった。赤には新聞記者として有能な人間が多いから、自然、赤い社員ができたのだろう」と答えている ”
同年の10月23日、読売新聞社の鈴木東民編集委員他は、東京本社の講堂において全従業員大会を開催した。翌日、従業員代表は正力へ大会にて決定した「社内機構の民主化」「従業員の人格尊重と待遇改善」などを求めた要求事項を書面で提出した。正力は要求を拒否、また社内民主化運動の中心人物であった5名を社内に混乱を生じさせたとして退職を命じた。
“ 正力は徹底した独裁者であり、火の玉のような男である。この意見書を見た彼は果然、激怒をもって一蹴してしまった。普通の対談でも怒号するように聞える彼の話ぶりであるから、怒った時のその語調や態度は容易に想像できる ”
この結果をうけて従業員側は闘争宣言を発し、鈴木東民を委員長とする闘争委員会を結成した。同月25日、闘争委員会は新聞の生産管理を宣言し、これに従わない編集局長、工務局長の現場よりの退出を求めている。紙面を決定する編集局、新聞を印刷する工務局はここに闘争委員会の管理下におかれた。読売新聞社内部において従業員組合が結成され世間の注目が集まると同時に政治的な色彩が濃くなっていく。
昔は労働者がかなり会社に権利を主張していたのかな?